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弓田盛樹

Author:弓田盛樹
岡山県労働組合会議で事務局員として勤務しています。
こちらのブログでは僕自身の個人的な活動を主に紹介していきます。

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青年の要求と労働組合
 青年集会にけて開催目標を考えているといつの間にか小論になってしまった(^_^;)
とりあえず、集会開催の基礎理論ということにします。「巡りの環」の本を読んだ直後ということもあるし、その内容が僕自身の問題意識にも近かったということのあるのでかなり似た構図になっています。

「仕事×暮らし×社会」

 青年は遊ぶことだけを考えているわけではありません。遊びたいという思いと同時に、いい仕事がしたいと強く思っています。そして、よりいい仕事をするためにはスキルアップを図ることが必要です。
青年の要求は単純に「労働条件を改善してもらいたい」「賃金を上げてもらいたい」「休みを取りたい」というだけではなく、「いい仕事をして適正な評価(対価)を得たい」ということが根本にあります。今よりもよりいい仕事をするためにはスキルを磨いていかないといけない。しかし、スキルアップばかり目指して、仕事を疎かにしてはいけない。そこから「仕事→スキル→評価」という構図が見えます。
さらに、そこにきて自己責任が青年を襲います。努力して相応の成果を上げなければ、力不足とされてしまう。「仕事就ができないのはあなたの力が足りない」=「自己責任」というわけです。青年は競争社会と自己責任に追い詰められているといえます。しかし、見方を変えればスキルを磨き、よりいい仕事がしたいがために奮闘している青年の姿を発見することができます。
 青年が労働組合に結集しないのは単に面倒くさいからで、労働組合があるから自分たちが守られているというところまで考えが行き着きません。かなり極端な言い方ですが、そこに到達する前に、自分自身のレベルアップにつながることがない組合活動は時間のムダということになるのではないでしょうか。しかし、経済不況の中で企業や自治体は職員に対して十分な研修を受けさせるだけの労力はありません。必然的にスキルアップを図ろうと思えば、個人負担が増加するのです。給与水準の低い青年労働者には負担が大きすぎると思います。また、いい仕事をするためには仲間との絆を深めていかないといけません。仕事終わりの呑み会、職場交流会など、他愛もない会話を通して仲間意識は芽生えるものです。人間は無機質なロボットではありません。仕事とプライベートをきっちりと割り切ることなどできるはずがないのです。
 働くこと(仕事)と暮らしは本来社会の中で一括りのものであったはずです。しかし、新自由主義経済とグローバル化によりそれらは切り離されてしまいました。とにかく安ければいいという異常なまでの価格競争(例:マクドナルドの1分チャレンジ)、際限を知ることなくどこまでも競争を煽る大人(例:大阪橋下市長率いる維新の会)、長時間労働(例:年中無休の24時間型社会)、低賃金(例:10年間で賃金が低下しているのは先進諸国の中で日本だけ)など。これにより「仕事=生活の糧」「暮らし=自分自身の余暇」「社会=習い事、レジャー」というように分断されています。しかし、繋がっているように見えるものがあります。それは仕事と暮らしで、生活の糧を得るために自分自身の余暇を犠牲にしてスキルアップを図る。つまり、何をするにしても仕事が中心になっているのです。これは正常なつながりとはいえません。そして、社会的な関係は非日常的なもので一時的な楽しみのようなものになっています。 労働組合は崩れてしまったものを再構築し、よりよいものにしていくこと。ここでは青年の要求である「いい仕事がしたい」「スキルアップしたい」という要求に応えることが青年から求められていることのように思います。


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つながり | 15:48:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
―箴言・コヘレトの学び会素案―

 現代社会において神の存在を認知することは普通の人には困難なことである。なぜなら、そうしたことは考えないのが正常という価値観が溢れているから。しかし、人間とは不思議なもので何かを信じて生きようとしている。信じるに値するものを探しているというのが正確かもしれない。
同時に社会に対して矛盾を感じながらも決して抗うことのできない権力・支配に絡みつかれているということを理解しながらも、そうした政治を支持している。例えば、消費税増税や新自由主義にある競争論、震災後極端に右傾化した自民党や橋下、石原新太郎など彼の言っていることはどこか間違っていると思ってはいても口に出せないでいる。機械的に、伝統的に、あるいは苦しいが苦しいことの方が充実していると感じてしまうほど、当たり前のように、自分たちを苦しめる人を支持する。
 一方、社会運動が前進しているように見えるが、組織の実情は私たち労働組合と何ら変わりはしない。社会活動に興味関心を抱き積極的に参加する人は稀。NPOが話題になっているが、そこまで志のあるひとはなかなかいないし、事実運営面などで困難な問題が多い。貧困と格差の拡大によって、多くの国民は日常生活がままならいと感じていることだろうし、そのように感じることができないならば感覚がマヒしていると言える。
 旧約時代の人々がそうであったように、実利面での祝福があって初めて人間は神を認知するようになるという実態が残念ながら存在する。しかし、神がよしとしないと祝福は与えられない。そこでどうしたら実利面、大胆に言えば金銭的な祝福が獲れるのかを箴言・コヘレトから考えてみたい。むろん、金銭的に祝福されることが最終目標ではない。神が創った世界でどう生きていけばよいのか、正しさとはどこにあるのかを学び、あるいは各人が見出し、個人の意識を変革していくことに本当の目的はある。
 「与えられたものを上手に使うものはもっと多くのものが与えられ、ますます豊かになる」もの。しかし、与えられるということは相応の責任が伴う。「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」キリストの贖いにより罪を赦され、キリストを信じるということで義とされ、聖霊を注がれた者が、目をふさぎ、耳をふさぎ、口を紡いでいるのなら、土の中にタラントを隠したなまけものと同じではないか。そうした人に対する神の裁きはどれほど大きいだろうか。


キリスト教 | 15:03:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
新しい時代の活動家論(人権21寄稿文)
人権21(10月号)に掲載した文章を掲載します。
なお、僕以外にも4名の方が寄稿されていますが、その感想も後日アップします。

<要旨>3.11以降日本は大きく変化しようとしている。
    しかし、労働組合は変化に耐えうることができるだろうか。
    時代の変化に合わせた新しい「基礎的理論」を構築していくことの必要性をこの小論文で示す。
    

1。青年活動家の苦悩
 2012年7月29日~31日に第26回全労連定期大会が開催され、今後の組織強化をどう図るのか。そして、次代を担う活動家をどう育成するのかを中心とした議案が提案された。討論に参加した青年からは、「今頃青年の組織強化、育成に本気で取り組むというのは遅いのではないか」という厳しい指摘もあった。どこの労働組合・民主団体(平和委員会、生活と健康を守る会などいわゆる民主的と言われる団体を指す。)でも同じなのだが、後継者の育成が立ち遅れている。このことは何年も前から言われ続けていることで、先の青年の指摘はもっともだ。
 私も含め、最近では運動経験のない20代の専従職員が徐々に増えてきている。だからこそ経験が重視される現行の労働運動では困難が伴うことが多い。経験のなさを補うために学習を重ねるが、経験の伴っていない学習は時に不信感を与える。どんなに完璧だとしても理論だけでは周囲からの信頼を得ることは難しく、思うような協力を得ることができない。そのためか中にはメンタルヘルスを抱えてしまう若手専従職員もいる。また、組織率の低下はそのまま財政に影響を及ぼすことになるため、金銭的な面での将来不安を抱える若手専従職員も少なくないのではないだろうか。全労連中国ブロック青年交流集会が8月18日~19日の二日間にわたり開催された。「今とこれから」をテーマにしたディスカッションが行われ、青年活動家の切実な思いが語り合われた。「毎月7~8万円程度の給料しかない。これでは生活ができないためダブルワークをしている」「組織率が低下し、専従を廃止することまでが議論されている。このままでは失業してしまう」「幅広く活動していきたいが、組織内で反対され活動が制限されてしまう」「青年活動に専念したいが、仕事量が多くてできない。相談を持ちかけると能力の問題とされてしまう」など若手専従職員の困難な状況を垣間見ることができた。
 さて、青年をとりまく情勢は困難を極めてきている。就業構造基本調査によると、25歳~29歳の年収は1997年と2007年を比較すると、年収300万円未満が男性では30.3%から41.6%、女性は63.7%が70.6%といずれも増加している。その中でワーキングプアと呼ばれる年収200万円未満者は、男性では7.6%から12.3%、女性は32.8%から37.2%と同様に増加している。これから生活の基礎を築いていく世代が、この10年間で賃金が下がっている状況がみてとれる。
異常な長時間労働による過労死・過労自殺が青年の間にも蔓延している。外食チェーン店ワタミに入社した青年が入社後2ヶ月程度で過労自殺した事件は記憶に新しい。2011年度の自殺者数は、30,267人で、前年から1,271人減少しているが、依然として14年間連続で3万人を超える自殺者がいる。その数は14年間で約50万人に達しており、都市がひとつ消えるぐらいの勢いだ。自殺の要因のひとつとして挙げられているのが、メンタル不全の問題。メンタル不全になる原因としては「職場の人間関係」「仕事量・負荷の増加」「長時間労働」などが考えられている。また、パワハラも職場・社会のなかで深刻になっており、厚生労働省は「職場のパワーハラスメントの予防・解決に向けた提言」を公表するに至った。また、社会保障は改悪され続け、消費税増税法案は成立してしまった。国家戦略会議のフロンティア分科会で「全国民の非正規化」「40歳定年制」という恐ろしい議論がされるなど、雇用破壊は止むことがない。いま20代~30代の青年はこうしたままならない状況の中で不安を抱きながら生きている。
 労働組合・民主団体はそんな青年たちを仲間に迎え入れて、貧困・格差とたたかっていかないといけないわけだが、厳しい生活を強いられている若手専従職員は、「まともな暮らしのできる賃金を!」「労働時間の短縮を!」「有給休暇の積極的消化を!」と要求を掲げてたたかっていながら、いざ自分を省みると求めていることと正反対な状況にあるという自己矛盾を感じてしまうことになりかねない。活動することを仕事として選択し、生活を成り立たせている時点で活動家・専従職員といえども労働者であることに変わりはないのではないだろうか。次代を育成し組織強化を図るためにも、若手専従職員の待遇面をどう整備・補強するのかを組織内で徹底的に議論することが必要であろう。活動家が不安なくして安心して活動に専念するためには一定の条件が整っていなければならないことは確かだ。
 混迷を極める情勢の中で、困難を抱えている青年活動家であるが、自分たちのこれからについては希望を見出しているようだ。全労連中国ブロック青年交流集会での「これから」についてのディスカッションで、「年一回、中国ブロックで集まって、青年が講師となる労働学校を開催したい」「できること。したいこと。しないといけないことは色々ある。楽しく豊かに生きていきたい」「人と出会うことで、その人の生き方を知っていきたい」「自分の外に目を向けると色々な人がいる。そんな人とつながっていきたい」といった前向きな思いが溢れた。どんなに困難な状況にあろうとも希望を持って小さなことにも可能性を見出しながら活動している青年活動家のスガタが見える。

2。活動家の生みだすもの
 一般的に労働組合、民主団体の専従職員は何も生産していないと言われることが多い。はたして本当に活動家は何も産みだしていないのだろうか。先の全労連中国ブロック青年交流集会でもこのことが議論された。しかし、誰も明確な答えを示すことができないまま議論は終わってしまった。
三浦展氏は著書「第四の消費 つながりを生み出す社会へ」(朝日新聞出版)において、1912年から現在にいたるまでの日本社会の「消費」を4つに切り分け、日本人の消費行動の傾向がどのように変遷していったのかを解説している。ここで著者のいう第四の消費とは、ただ物を消費するだけではなく、そこに人と人とのつながりがもてるような消費である。このことにヒントを得て「第4次産業」「第5次産業」について考える。経済学には「第4次産業」「第5次産業」という考え方がある。第4次産業とは社会における知的組織で、政府、調査機関、文化団体、IT(情報関連産業)、教育組織、図書館などが含まれる。第5次産業とは第4次産業に関連した産業分類であるが、社会や経済における上級管理職または最上位の意思決定者のみが含まれ、NPO団体、メディア、芸術、文化、高等教育、ヘルスケア、科学技術や政府などの上級管理職などは全て含まれることになる。つまり、第5次産業とは第1次から第4次までの産業形態を自由に融合、分化させて、これまでになかった一種の不定形な産業を生み出す産業を指している。
 この考え方に照らし合わせると労働組合、民主団体の生産するものは第5次産業に含まれていると思われる。最近では「婚活」をコーディネートすることや、facebook上で友達になった者同士が実際に会い交流することをプロデュースすることも職業として成立している。そこでは、目に見ることのできない人と人のつながりが生産物として生産されていると考えることもできる。労働組合、民主団体も同様に人と人のつながり、個人あるいは集団の夢・希望の実現を図る(生産する)ことをしているのではないだろうか。
 労働組合の場合、労働者は要求で団結したたかうことが基本とされる。「一方的な賃金の切り下げは許せない」「何時間残業しても手当がつかないのはおかしい」など要求は職場内に渦巻く様々な不満や悩みから作られていく。しかし、この間、広島県労連では青年を中心とした「クリスマス・パーティー」を開催し、岐阜県労連では異性との出会いの場としての「恋するBBQ」が開催されている。また、その後の岐阜県労連では「キュン闘」という合コン企画も行われている。このように個人の人生に深く関わるような要求での運動の展開が全国的に増えていくことが予想される。岐阜県労連でのとりくみに深く関わってきた青年Hさんは、「不満や悩みから出発する要求ではなく、夢や希望から出発する要求で団結したい」と語っている。職場内で不満や悩みが発生するのは「こうであったらいい」という思いとその思いの実現を阻む困難な現実があるからである。
労働組合は労働者の「やりたい」「こうしたい」を応援できる場である。そして、労働者の夢をかなえるために一緒になってたたかっていくのである。例えば、ある組合員が3年後に世界1周旅行に出かけるために、300万円が必要であるとする。また、ある人は子どもの養育費を確保するために賃金を上げてもらいたいと考えているかもしれない。仕事の成果に対して賃金が低すぎだと考えている労働者もいるだろう。こうして賃金を上げてもらいたいという要求が生まれる。そして、何らかの理由で賃金を上げてもらいたいと思う労働者が複数いて団体交渉につながる。要求を掲げて団体交渉を行い、みごとに要求を勝ち取った時、労働組合は労働者の夢・希望の実現を前進させることができたことになる。
専従職員が生産しているものは目には決して見えない人の夢や希望を実現することであり、決して「生産物がない」といことにはならない
3。まとめ
 現在日本は年間 5800万トンの食料を海外からの輸入に頼っていながら、食糧廃棄量は一年に1940万トン(輸入食糧の三分の一)を廃棄している。日本と同じ食糧廃棄がアフリカやインドなどの新興諸国でも行われるようになると、世界は破綻してしまうことになる。日本では現在、経済的に豊かであることが人間にとって幸せであるという価値観が溢れている。人を評価する上でも資産家や金もうけの能力にたけた人を優先する傾向がある。しかし、経済は生活のための手段であり、目的ではない。まるで人間が市場マーケットによって支配されているように見える。いったいこんな社会はいつまで続くであろうか。
 持続可能なよりよい社会をつくるためにまず大切なのは、自分自身が周囲の人、状況に責任をもって関わっていくこと。同時に要求もただ懸命に働いて物質的豊かさだけを追求する要求ではなく、文化的な要求、政治的な要求へと高めていかないといけない。より高次の要求を構築するためには徹底した議論と、理論が必要だ。時代の変化に伴って社会・経済構造は大きく変化している。そんな中でこれまでは産業と考えられなかった分野でさえも「第4次産業」「第5次産業」として社会に認知されてきている。このように刻々と変化する社会状況に合わせて、労働組合や民主団体に求められる役割や存在意義も当然変化する。こうした変化に合わせた議論を組織内で徹底的に行い、新たに理論を構築していく必要がある。資本家は時代の変化にきわめて敏感である。彼らは常に最先端の理論を学び、経営に取り入れている。例えばプロジェクト管理に関するPM論、コーチング論、ファシリテーション、行動経済学論など通常私たちが触れることのないような理論に基づいて組織を運営している。新しい時代の専従職員、活動家は学びにおいて、こうした最先端の理論に触れていくことも必要である。
 そして最も大切なことは「ビジョン」を持つことである。私は常々、誰もがそれぞれの専門とする分野の中で活躍しているプロフェッショナルだと考えている。しかし、プロフェッショナルとして、それぞれの専門分野の内だけでのつながりになってはいないだろうか。それでは、ビジョンは生まれてこない。社会にはNPO、NGO、ボランティア団体など私たちとは全く違う分野で活動を展開している人がたくさんいる。自分とは違う人たちの中に飛び込むことは勇気が必要だ。ぜひとも勇気を出して飛び込んで行ってもらいたい。様々な人たちと対話をすることで協働の道も拓かれ、新しい時代に対するビジョンが湧きあがってくる。
 「新しい時代の活動家」は「新しい時代の担い手」としての活動家であると思う。活動家も専従者、非専従者とそれぞれ立場と負っている責任も違うが、自分たちは活動を通してどんなことを実現したいのか。そして、自分たちのさらに次の世代にどんな社会を残していきたいのかを改めて考える必要がある。そうした思考過程を通して、問題意識が高められ、運動の方向性も定まってくるだろう。


学び | 14:03:14 | トラックバック(0) | コメント(0)
協働の輪を広げるために
時代の変化に伴い、かつてのような経験主義での運動構築はもはや困難となってきている。労働組合・民主団体の後継育成はどれもうまくいっていないのが現状だ。いま運動の最前線で活躍している人たちは3~5年もすればリタイヤしてしまう。組織を拡大するためにも、これまでになかった新しい活動がより重要になってくる。
最近では「社会貢献を仕事にする」とのキャッチコピーのもとにNPO法人への就職を決意する新規学卒者が増えている。私たちも労働組合を就職先として選択してもらえるような魅力ある場所に変化していかなければならないのではないか。地域社会に積極的に出て行き、広く一般に認知され親しまれる組織を目指したい。
ここで新しい運動をいくつか提案する。すぐに実現することはできないが、議論の価値はあるのではないかと思う。
①人権・労働法の学習
強いて言うならば、労働組合の専門は労働者の権利を守ることである。そして、何を根拠に守るのかといえば憲法に明記された「人権」と労働基準法をはじめとする「労働法」においてである。改めてこの点を専門的に学習し、人権・労働法のスペシャリストを養成する。
②高校・大学と連帯しての講義活動
 高校・大学内で労働法に関する講義をできる体制を整える。日本の教科書では労働組合について触れていない。ヨーロッパ諸国では自身がどんな権利を持っているのかを知るための授業がなされている。また、日本の大学の就職セミナーなどでは「労働基準法通りの会社なんてない。労働基準法通りにしていると経営が成り立たなくなる」など労働条件に関する質問はするなと教えられる。そこで、労働組合から講師を派遣して講義を行うことで学生に権利意識を芽生えさせることを目指してみてはどうだろうか。
③就職先としての労働組合
 ただ単に、就職先として労働組合を選択するというのでは運動が形骸化していってしまうだけでなく、職場での経験がない新卒者の立場からは非常に精神的に辛い面があると考えられる。しかし、NPOが就職先として注目されていることを考えれば、社会に貢献することで給与を得たいと思っている青年が増えていることがわかる。そこで、就職先として労働組合もあるということを就職セミナーなどでアピールしてみてはどうだろうか。
④経営者を対象としたセミナーを開催
 ISO26000をご存じだろうか。ISO 26000では、7つの原則として「説明責任」「透明性」「倫理的な行動」「ステークホルダーの利害の尊重」「法の支配の尊重」「国際行動規範の尊重」「人権の尊重」を挙げ、これらを行動規範として尊重することを組織に求めている。企業にISO26000を認知させ、よりよい労働環境をつくることを目的にセミナーを行ってはどうだろうか。


つながり | 12:53:44 | トラックバック(0) | コメント(0)
新しい活動家のスガタ
 果たして人間は世界の単なる一部であり、世界の流れに従属して生きていくしかない存在なのか。それとも、世界の中で自立し、意思を持って生きていく存在なのだろうか。人間の存在意義とはなんであろうか。
約700万年前に人間は2本足で立つことを覚え、猿から人間へと進化を遂げた。そして、人間は手を使い様々な道具を作り、使っていくうちに、手は徐々に器用さを身につけていった。手による道具の製作・使用という労働が、人間の手を精巧なものにし、さらなる進化と発展を人間に与えた。ダーウィンの唱えた進化論は唯物論・科学的社会主義の基礎をなしている。
 しかし、ここで問題となるのは人間が何のために存在しているのかが明らかとされていないという点である。極論を言えば、進化論を通して考えると私たち人間が生きることに意味はない。なぜならば、地球の誕生から人類の誕生までのすべてが「偶然」ということになってしまうからだ。こうした進化論と対極に位置しているのが、神が人類を創ったという「創造論」である。旧約聖書・創世記にあるように「神」が7日間でこの世のすべてを創造したというのである。創造論の場合、人間は神よって創られた点から、明らかに神には何らかの目的があり、人間の生きる意味は進化論よりも明確になる。しかし、創造論が正しいとしても生きる意味が完全にわかるわけではない。なぜなら、神と直接話し、生きる意味を教えてもらうことのできる人間などいないからだ。
さらに、私たち人間は誰一人として、生まれてくる時間と場所、両親を自らの意思で選択することはできないことからも、すべての人間は二次的意味と責任のなかで生きているといことになる。進化論の観点から言えば、私たちの存在は偶然の産物にすぎず、もともとそこには意味も責任もない。創造論の観点からは、人間を創ったのは神である以上、人間は神によって意味と責任を与えられている。初めの誕生が偶然であったにしろ、必然であったにしろ、その後の人生は自主的に自らの意思で選択していかないといけない。そういった意味において、すべての人間は二次的な生き方をしているのである。
  集団の中で個々人の思いと思いが摩擦し合うときこそ人間はそのことに気が付く。「これがしたい」「このために生きたい」という一種の個性の誕生、自我の芽生えともいえる瞬間が誰にでもあるはず。現状に則して人間は自己を確立していく。そしてさらに次の発展を遂げ、三次的、四次的な意味と責任を見出し、新しい自己を絶えず確立し続けていく。加えて言うなら、「人を研ぐことができるのは人である」ということで、私たち人間は自分とは違う他者の中でこそ自分のすがたに気が付くことができ、自立を果たすことができる。 さらに、人間は生物学的存在とは異なる非常に社会性の強い存在である。人間は生後、自主性、創造性、意識性を社会的関係の中で獲得していく。そうであるならば、人間社会は自然発生的、生物学的属性の延長線上に発展し、客観的に存在し合い、社会的意識に反映される物質諸条件や経済関係の土台の上にあるとみるのは誤っているように思う。社会を構成しているのは、社会的存在としての人間と人間が結ぶ社会的関係、それによって人間が生産し蓄えてきた社会的富だ。
  私たち一人ひとりが今この場に存在しているのは「たまたま」「偶然」「なりゆき」ではない。自分たちの意志の結果なのであり、決して偶然の出来事ではない。新しい時代を生きる若い活動家にはこの点を知ってもらいたい。


学び | 11:25:53 | トラックバック(0) | コメント(0)
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